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【淡路歴史探訪】その6 国を救った巨砲 由良
- 歴史
レポーター紹介
投稿者 | 歴じい |
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性別 | 男性 |
年代 | 50代 |
住まい | 兵庫県淡路市 |
趣味 | 読書(司馬遼太郎など) |
自己紹介 | 淡路生まれの淡路育ち。歴史好きで戦国時代以降、明治の近代化までに興味があります。あまり光の当たっていない「淡路島の歴史や人物」をご紹介できたらと思っています。 |
国を救った巨砲 由良
大阪湾の入り口
「大坂の役」で手柄をたてた阿波の蜂須賀家に「淡路一国」が徳川幕府より加増されると、蜂須賀氏は「由良城」を修復して淡路支配の拠点とした。水軍を持つ蜂須賀家に大阪湾の入り口を守らそうとする徳川幕府の意向が働いたためだ。
世の中が落ち着くと統治上の都合から蜂須賀家は、淡路国の首府を「平地の少ない由良」から、洲本川の河口で「平地が広がる、島の中央部の洲本」に城下町を整備して町ごと移した(1631年)。それが「由良引け」と呼ばれている。
日本有数の大要塞
時代は変わり明治となっても、紀淡海峡に面し大阪湾の入り口にあたるこの地の重要性はかわることはなかった。
軍は日本防衛の指導にあたっていたフランス人参謀中佐マルクリーの意見に基づき、明治22年に砲台工事に着工すると、29年には由良要塞重砲兵連隊を編成し、由良要塞司令部をおいた。明治37・38年の日露戦争をはさんで明治39年には、和歌山県の加太から友が島をへて鳴門の門崎にいたる、大砲118門を備えた「日本有数の大要塞」を完成させた。
昭和20年の敗戦により威容を誇った「大要塞」も連合軍による武装解除と非武装化により、ことごとく破壊されたが、今も町のいたるところでその残像をうかがい知ることができるので要塞跡巡りも島のたどってきた歴史を知るうえでおすすめ。
要塞司令部の廃止後、庁舎建物は由良中学校として使われ、現在は跡地に由良公民館が建っている
28センチ榴弾砲が日露戦争で大活躍
「由良要塞」が直接の戦闘に巻き込まれることはなかったが、要塞に備えられていた28センチ榴弾砲が日露戦争において大活躍をする。
日露戦争では国力の勝る大国ロシアとの闘いで厳しい情勢にあった。ヨーロッパから回航されてくるバルチック艦隊が来る前に中国遼東半島にロシアが租借している「旅順要塞」を落とさなければ、「制海権」が奪われ、日本の敗戦が決まってしまうという厳しい情勢にあった。
何度も総攻撃をかけるが、両軍に膨大な死傷者を出すばかりで「旅順要塞」は落ちない。打開策を失った日本軍は、日本本土の「由良要塞」や「東京要塞」に設置してあった対艦用の海岸砲「28センチ榴弾砲」を取り外して中国大陸の旅順郊外まて運び、3週間はかかるといわれていたものを9日で設置して要塞攻撃に用いた。
この攻撃により戦局は劇的に改善した。「旅順防御」の中心人物であったコンドラチェンコ少将が被弾して亡くなり、港湾が見渡せる203高地を落とすと、港湾にいたロシア艦船を「28センチ榴砲」で沈めたことによりロシア軍は戦意を失い「旅順要塞」は降伏した。そして日本軍は攻城戦にあてていた第三軍を「28センチ榴砲」とともに最後の奉天会戦にまわすことができ、厳しい戦いをなんとか勝利し、最終的に日露戦争に勝つことができた。
ロシアの司令官であるステッセル将軍も戦いが終わったあと一番悩まされたのはなにかと聞かれ、「28センチ榴弾砲」であったと答え、『魔物であった』とまで言っている。この要塞に設置されていた「28センチ榴弾砲」が、日本の国を救ったことはまちがいない。
由良要塞砲兵連隊兵舎跡 (所々に井戸だけが残る)
高崎には、幕末時も徳島藩が大阪湾に侵入してくる外国船に備えて造った砲台があった。
時代を超えても大阪湾の喉元にある由良の重要性は変わらない。
■参考文献
洲本市史、明治の逸材、由良要塞、淡路史
※記事内容は取材当時の情報です。詳細は各イベント・施設・店舗までお問い合わせください。
Date:2021.08.03